こんにちは。あかねです。
東日本大震災発生から、今年で10年になります。
当時、私は東京に隣接する関東内陸部の都市に住んでいました。
市内の会社で10時から4時までの事務のパートをしていて、地震発生当時は6階建てのビルの4階にある事務所で仕事をしていました。
私のちょっとしたミスがあって、これをどうしようかと両脇二人の先輩と私の3人でPCの画面を見つめて考えていたときのこと。
カタカタと揺れが来るのを感じました。
「あ、地震・・・?」
「あら、本当ね」
そんなことを言っているうちに揺れはだんだん大きくなって、事務所内がざわつき始めます。
とりあえず机の下にもぐって、揺れが収まるのを待ったのですが、一旦収まるかと思った揺れはさらに激しくなりました。今までに経験したことのない揺れ方でした。
震度は5強ということでしたが、私の感覚ではもっと強かったのではないかと思いました。
その後も何度か余震が来ました。
子供たちは大丈夫だろうか。
当時長男は高校2年生、次男は中学3年生でした。
次男のほうは学校にいる時間だったので、たぶん大丈夫だろうと思いましたが、長男は学校が午前中だったので、家に帰っているか、あるいは電車の中かも知れないと心配したのですが、家に電話したら出たので一安心。
家に一人でいた長男は相当怖かったようです。
リビングの棚からガラスケースが床に落ちて割れたと言っていました。
当時住んでいた所は3階建てのアパートの3階で、1階に大家さんが住んでいて、大家さんの奥さんが下から大声で息子に外に逃げるよう声をかけてくださったそうです。
「電車は止まっているから、歩いて帰るからね」
そう長男に伝え、会社の自販機でミネラルウォーターを1本買い、定時になると意を決して鉄道駅4つ分の距離を歩いて帰ることにしました。
当時もウォーキングなどしていたので足には自信がありました。鉄道の線路と平行して幹線道路が走っていたので、そこを歩けば最寄駅に着くことができて、そこからは自転車があったので、何とかいけるだろうと。
4時に会社を出て、ひたすら幹線道路を歩きました。たくさんの人が歩いていました。普段ならあり得ない光景でした。
途中、鉄道駅の前を通ると、駅前は締め出された人たちでごった返していました。
(これはあとから問題になっていました)
ビルの外壁の一部が剥がれ落ちたところや、ブロック塀の崩れている民家もありました。どうにか最寄駅にたどり着きましたが、スーパーなどは店を閉めてしまっています。
駅前のマックが営業していたので、そこで夕飯を調達し、急いで自転車で家に帰りました。
4時に会社を出て、家に着いたのは6時過ぎくらいだったと思います。
家の前に着くと、息子たちが外にいました。
「どうしたの?」
「ときどきデカイのが、来るんだよ」と、不安そうな長男。
次男は目を丸くし、
「お母さん、どうやって帰ってきたの?」
停電にはなっていなかったので、部屋に入って、すぐテレビをつけました。そこに写った光景は、とても現実に起きていることとは思えませんでした。
これは大変なことになった、と思いました。
割れたガラスを片付け、その日はすぐ逃げられるように服のまま、傍らに上着を置いて倒れてくるものがないリビングで息子たちは寝ました。
私はキッチンのイスに座って、テレビをつけたまま一晩中起きていました。
何度か緊急地震速報が鳴り、1度は息子たちを起こして外に出ました。
都内に勤めていた夫(当時)はその日は帰ってくることが出来ず、帰ってきたのは翌日の昼過ぎでした。
不安な一夜が明けると、食糧、飲料の調達のため、子供達と手わけして買い物にでかけました。
私は近所の安売り量販店にいったのですが、店内は大混雑。確か入場制限していたと思います。
しかもお米や水、カップめんなどはほぼ売り切れ。通路はすれちがうのもやっとで、怒号もとびかっていました。
まさにパニック状態。
息子たちも他のスーパーで、やはり同じような光景を目にしたと言っていました。
そして、流通がストップしたためスーパーの品薄状態はしばらく続きました。
あらためて備蓄の重要性を感じました。
阪神・淡路のときにも、そう思ったはずなんですが・・・。
そして原発事故により、私の住んでいた地域は計画停電の対象となりました。
一日のうち、決まった時間帯だけ電気の供給が止まります。
それが午前中のときもあれば、夜のときもありました。
停電の時間帯は道路の信号機もすべて消えるので、こわかったです。
そして3月はまだ朝晩は冷えるので、暖房器具が使えないと寒かった。
福島、宮城、岩手、青森。
実は私はまだ一度も行ったことがありません。
緊急事態宣言も延長になり先は見えませんが、いつか訪れてみたいなと思っています。
温泉地や神社をまわったり、三陸鉄道にも、乗ってみたいな。
10年前のあの日、多くの尊い命が失われたこと。
多くの人々の生活環境が一変してしまったこと。
そしてそれは決して他人事じゃない、ということ。
これからも忘れないようにと、今日はあの日のことを書きました。